10月が誕生日または命日の音楽家にはサンサーンスやヴェルディ、ショパン、リストなどがいます。
それでは、それぞれの音楽家達について覗いてみましょう。
10月1日~10日 サンサーンスやヴェルディなど
10月1日はウラディミール・ホロヴィッツの誕生日
10月1日はウラディミール・ホロヴィッツの誕生日です。「鍵盤の魔術師」とも言われるウラディミール・ホロヴィッツは1903年10月1日、ロシア帝国(現在のウクライナ)に生まれました。彼はキエフ音楽院(現在のキーウ音楽院)で学び、卒業後は国内外でリサイタルを行いました。1928年、アメリカデビューの時にトーマス・ビーチャムの指揮でチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏しましたが、テンポのことで指揮者と意見が合わず、本番では指揮者を無視してテンポを加速し、終了後、大喝采を受けたのは有名な話ですね。また彼はアメリカに帰化し、アメリカでの永住権を得たのですが、アメリカ合衆国の第2の国歌とも言われる「星条旗よ永遠なれ」を超絶技法を盛り込んで編曲して演奏会で取り上げ、聴衆を喜ばせました。それでは、ホロヴィッツ編曲「星条旗よ永遠なれ」をお聴きください。
10月2日はマックス・ブルッフの命日
10月2日はマックス・ブルッフの命日です。作曲家マックス・ブルッフは1838年1月6日、ドイツのケルンに生まれました。彼はソプラノ歌手だった母親から音楽の手ほどきを受けました。ボン大学で学んだ後、宮廷楽長などを務めましたが、42歳でイギリスに渡り、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者になりました。ケンブリッジ大学やベルリン大学から名誉博士号を贈られる程の活躍をしました。マックス・ブルッフの作品は大変魅力的な旋律が特徴で、メンデルスゾーンやシューマン、ブラームスを尊敬していました。それでは、「ヴァイオリン協奏曲 第1番 ト短調」をお聴きください。
10月3日はカール・ニールセンの命日
10月3日はカール・ニールセンの命日です。ニールセンはデンマークで最も有名な作曲家です。彼は1865年6月9日、デンマークの貧しい農家に、12人兄弟の7番目として生まれました。デンマーク音楽アカデミーで学び、後に同校の教師になりましたが、66歳で亡くなるまで、そこの教師を続けました。デンマークでは2006年に国内で最も偉大な音楽を12曲選定しましたが、その中にニールセンの作品が3曲も入りました。また彼の歌曲や合唱曲はデンマークの学校や家庭で今でも歌われています。それでは、序曲「ヘリオス」をお聴きください。 これはニールセンがギリシャに旅行した時、エーゲ海の日の出に感激して書かれたと言われています。
10月4日はエルネスト・デ・クルティスの誕生日
10月4日はエルネスト・デ・クルティスの誕生日です。イタリアの作曲家エルネスト・デ・クルティスは1875年10月4日、ナポリに生まれました。あの有名な「帰れソレントへ」の作曲者です。歌詞は詩人である兄ジャンバッティスタ・デ・クルティスによるものです。「帰れソレントへ」は中学校の音楽の教科書にありますので、生徒達は初めてのイタリア語にカナを振ってその気になって熱唱しました。彼はナポリのサン・ピエトロ・ア・マイエラ教会音楽学校で学びました。100曲を超える歌曲を作曲しましたが、世界的テノール歌手、ベニャミーノ・ジーリのピアニストとしても活躍しました。「忘れな草」はイタリア映画「忘れな草」の中でジーリが歌い、有名になりました。それでは「忘れな草」を聴いてみましょう。
10月5日はアンネローゼ・シュミットの誕生日
10月5日はドイツのピアニスト、アンネローゼ・シュミットの誕生日です。アンネローゼ・シュミットは1936年10月5日 、ドイツのヴィッテンベルクに生まれました。父親がヴィッテンベルク音楽院の院長だったので英才教育を受け、幼少時にデビューしました。その後ライプツィヒ音楽院で学び、1955年にショパンコンクールに参加、翌年にはシューマンコンクールで優勝!後にはベルリンのハンス・アイスラー音楽大学初の女性学長になりました。2000年にはショパンコンクールの審査員もされました。初来日の1973年以降、何度か日本にも来られました。それでは、ショパンの「バラード第1番」を聴いてみましょう
10月6日はカロル・シマノフスキの誕生日
10月6日はポーランドの作曲家カロル・シマノフスキの誕生日です。カロル・シマノフスキは1882年10月6日(10月3日とする説も)、当時はロシア帝国になっていたティモショフカに生まれました。父親のスタニスワフ・シマノフスキはポーランドの裕福な大地主で、両親は音楽を愛し、カロルは、恵まれた環境に育ちました。しかし、当時のポーランドはロシア領になっていて、その後のロシア革命など激変する厳しい時代を生きなければいけませんでした。家がコサック兵に襲われ、物を略奪された上にピアノを近くの池に投げ込まれた時は大変なショックを受け、彼は音楽から離れ、それ以来、その家に帰ることはありませんでした。1918年にポーランドが独立した頃から、シマノフスキは祖国の音楽に興味を持ち始め、特に山岳地帯の農民の民謡をもとに傑作を生み出しました。そんなカロル・シマノフスキの子孫にスタニスラフ・ブーニンがいます。ブーニンの祖父にあたるゲンリヒ・ネイガウスの母方の祖母の兄弟の孫がカロル・シマノフスキだそうです。ちょっとややこしいです。(汗)それでは、カロル・シマノフスキのマズルカをお聴きください。
10月7日はヨーヨー・マの誕生日
10月7日はヨーヨー・マの誕生日です。チェリスト、ヨーヨー・マの名前は、特に音楽に詳しくなくても聞いたことがあるでしょう。彼は1955年10月7日、フランスのパリで生まれました。今年で69歳になられます。お父さんは中国の寧波生まれで、指揮者・作曲家、お母さんは香港生まれで声楽家です。一家は彼が7歳の時にニューヨークに移住しました。ヨーヨー・マは4歳でチェロを始め、6歳の時はパリでリサイタル、7歳の時にはケネディ元大統領の前で演奏しました。以来、9人のアメリカ大統領の前で演奏しました。彼はジュリアード音楽院で学んでいましたが、先生に「教えることはもう何もない」と言われ、ハーバード大学で人類学の学位を取得しました。ヨーヨー・マさんは私と同じ世代なので、大学の時、友達の間ですごく話題になりました。初来日は1981年。私が大学を卒業した年です。彼はグラミー賞を19回受賞し、2021年には高松宮殿下記念世界文化賞も受賞しました。2006年からは国連平和大使を務め、TIME誌の「2020年最も影響力のある100人」の一人に認定されました。彼はクラシックだけでなく、あらゆるジャンルに関わっています。彼のライフワークに「シルクロード・プロジェクト」があります。ソニーミュージックによるヨーヨー・マの公式サイトには、彼のことを以下のように紹介してあります。
ヨーヨー・マの目標の1つは、コミュニケーションの手段としての音楽、世界中の文化の垣根を越える思想の交流の手段としての音楽の追求である。その目標を達成するために、彼は独特の楽器を使う中国固有の音楽や、アフリカのカラハリ砂漠周辺の民族の音楽など、実に多様な音楽にたっぷりと時間をかけて没頭してきた。 この方面への関心をさらに深めたヨーヨー・マが創設したのが「シルクロード・プロジェクト」で、地中海から太平洋まで伸びていた古代の貿易路シルクロード沿いの地域の文化・芸術・知的伝統の研究を推進させようというプロジェクトである。この広大な地域における思想の流通を探求することによって、プロジェクトはシルクロード諸国の文化遺産を照らしだし、その伝統を現代において体現している“声”を突き止めることを目指している。
引用元 https://www.sonymusic.co.jp/artist/YOYOMA/profile/
10月8日は武満徹の誕生日
10月8日は武満徹の誕生日です。
武満徹は1930年10月8日、東京の本郷区(現在の文京区)に生まれましたが、生後1ヶ月で父親の勤務先、満州へ渡りました。
武満徹はそこで、父親の吹く尺八の音色を聴きながら育ちました。
そして小学校に入学する時に一人で帰国し、母親の姉の家で暮らし始めました。
伯母さんは生田流筝曲の師匠をしていたので、武満徹はここでも日本の伝統音楽に触れながら育ちました。
でも学校の音楽は大の苦手だったそう。
そんな武満徹でしたが、1945年、埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員された時、宿舎の同室の下士官が隠れて聞いていたシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを」を耳にして衝撃を受け、これが武満徹が音楽家を志すきっかけになりました。
終戦後、武満徹は進駐軍のラジオから流れるドビュッシーなど近代フランスの作品を聴く一方、横浜のアメリカ軍キャンプで働きながらジャズにも親しむようになりました。
1949年、武満徹は音楽家になるために東京音楽学校(その年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験したのですが、そこで出会った少年と「作曲をするのに学校に行く必要はない。」という話になり、2日目の試験は欠席したのだそうです。
こんな武満徹ですが、1967年、琵琶と尺八とオーケストラによる「ノヴェンバー・ステップス」を作曲し世界的に有名になりました。
「ノヴェンバー・ステップス」は中学の音楽の教科書にも掲載されていました。
武満徹について詳しくはこちらをご覧ください。
https://flowerlove.kumamoto.jp/takemitsu-tooru
それでは、「ノヴェンバー・ステップス」をお聴きください。
10月9日はサン=サーンスの誕生日
10月9日はサン=サーンスの誕生日です。
カミーユ・サン=サーンスは1835年10月9日、パリで生まれました。
10歳の時にはモーツァルトとベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾いてステージデビューを果たしました。
サン=サーンスはモーツァルトと並ぶほどの楽才がありましたが、音楽にとどまらず、天文学や数学、絵画、文学などにもその才能を発揮しました。
オルガニストとしても素晴らしく、リストはサン=サーンスを「世界最高のオルガニスト」と称賛したそうです。
サン=サーンスが活躍したのは後期ロマン派の時代で、やがてドビュッシーなどの印象派が出てきますが、彼は古典的な音楽を守り通しました。
彼の作品は歌劇、交響曲、協奏曲、室内楽などあらゆる分野にわたっていて、世界初の映画音楽「ギーズ公の暗殺」の音楽も手がけました。
また、フランス音楽の復興を目的に設立した国民音楽協会はオペラや舞台音楽が中心だったフランスに管弦楽や室内楽を広めることに貢献しました。
それでは「序奏とロンド・カプリチオーソ」をどうぞ。
10月10日はヴェルディの誕生日
10月10日はヴェルディの誕生日です。
「オペラ王」と言われるジュゼッペ・ヴェルディは1813年10月10日、イタリアのパルマ付近の村で生まれました。
父親は宿屋などを営んでいましたが、村では珍しく読み書きができる人だったそうです。
ヴェルディは幼い時から音楽の才能を発揮し、8歳で地元の教会のオルガニストをしていたというから驚きです。
彼は18歳頃までに100曲以上の作品を書き、その頃からミラノで音楽を学び始めます。
そして第1作目のオペラ「オベルト」が成功しますが、その後ヴェルディは1歳の息子と妻を続けて亡くし失意の中にいました。
しかしその後また立ち上がったヴェルディが作ったのが、大成功を収めたオペラ「ナブッコ」です。
以降ヴェルディは、約10年の間に16ものオペラを作曲しました。
代表作となった「アイーダ」はエジプトのカイロで初演されました。
中学の教科書に出てきますから、多くの人が授業で学んだことでしょう。
私はあらすじを説明するのに、ついつい一人芝居をやったものです。(笑)
ヴェルディは「著作権」という概念を音楽界に持ち込みました。
彼はそれによって出た収益でたくさんの社会貢献を行い、そして「音楽家のための憩いの家」と呼ばれる老人ホームをミラノ郊外に設立しました。
その目的は高齢者の音楽家を救うことでした。
この老人ホームの費用はヴェルディの死後も、彼の著作権収入でまかなわれ、その後は賛同する音楽家達からの寄付により現在も存続しています。
ヴェルディは素晴らしい作品を残すだけでなく、社会に大きな貢献をしたのですね。
それでは、「アイーダ」から第4幕「さらばこの世よ涙の谷よ」をお聴きください。
10月11日~20日はポール・サイモンやショパンなど
10月11日はブルックナーの命日
交響曲第7番はブルックナーが57歳の時に着手したものです。
この作品には彼が困難を乗り越えた後の神への感謝が表現されています。
第2楽章には彼が尊敬するリヒャルト・ワーグナーへの葬送音楽が含まれています。
この部分はブルックナー自身の葬儀の歳、ホルン四重奏に編曲されて演奏されました。
それでは、交響曲第7番第2楽章を聴いてみましょう。
10月12月はヴォーン・ウィリアムズの誕生日
10月12月はヴォーン・ウィリアムズの誕生日です。
彼の最初の出世作と言われている「トマス・タリスの主題による幻想曲」は1910年にグロースター大聖堂において彼自身の指揮とロンドン交響楽団員により初演されました。
この曲は楽器編成に特徴があります。
大編成の弦楽合奏と小編成の弦楽合奏、そして弦楽四重奏という3群を離れた場所に配置することで、最大の音響効果が考えられています。
それでは「トマス・タリスの主題による幻想曲」を聴いてみましょう。
10月13日はポール・サイモンの誕生日
10月13日はポール・サイモンの誕生日です。
あのサイモン&ガーファンクルのサイモンですね!
ポール・サイモンは1941年10月13日、アメリカのニュージャージー州に生まれました。
今年で83歳になられます。
アート・ガーファンクルとは小学校時代からの友達だそうです。
1965年に「サウンド・オブ・サイレンス」が大ヒットします。
「サウンド・オブ・サイレンス」は中学校の音楽の教科書にも載っていました。
1970年には「明日に架ける橋」がヒット。
その年からサイモンはソロ活動を始めます。
しかし2003年にサイモン&ガーファンクルとしてグラミー賞特別功労賞を受賞したのをきっかけに10年ぶりに再結成し、世界ツアーを行いました。
2006年、サイモンはタイム誌が選ぶ「世界で最も影響力のある100人」に選ばれ、翌年はポピュラー音楽で世界の文化に大きな影響を与えた作曲家、演奏家に送られる「米国議会図書館ガーシュイン賞」の第1回受賞者となりました。
サイモンは昨年、左耳が難聴であることを公表しましたが、現在は聴力が回復したと言うことです。
それでは、歌詞付きで「サウンド・オブ・サイレンス」をお聴きください。
10月14日はバーンスタインの命日
10月14日はレナード・バーンスタインの命日です。
彼は1990年10月14日、72歳でこの世を去りました。
今日は「キャンディード序曲」を聴いてみましょう。
「題名のない音楽会」のテーマ曲として2015年まで、佐渡裕さん指揮で流れていましたね♪
10月15日はカール・リヒターの誕生日
10月15日は指揮者でオルガン・チェンバロ奏者のカール・リヒターの誕生日です。
カール・リヒターは1926年10月15日、ドイツのザクセンに生まれました。
早くから宗教音楽に親しみ、1949年にはトーマス教会のオルガン奏者に就任しました。
リヒターは東ドイツで活躍していましたが、社会主義統一党に支配されていた東ドイツを去りミュンヘンに移りました。
そして理想的なバッハ演奏のためにミュンヘン・バッハ合唱団を設立し、その後ミュンヘン・バッハ管弦楽団も設立しました。
1964年にはミュンヘン市から演奏芸術奨励賞を授与されました。
そして1969年、リヒターはミュンヘン・バッハ管弦楽団と同合唱団を率いて来日し、受難曲とカンタータを指揮、自身もオルガン、チェンバロを演奏しました。
また1979年には単身で再来日しています。
それではカール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団による「ヨハネ受難曲BWV245」をお聴きください。
10月16日は松下耕の誕生日
10月16日は作曲家、合唱指揮者の松下耕さんの誕生日です。
松下耕さんは国立音楽大学作曲学科を首席で卒業され、卒業後はハンガリーで合唱指揮法及び作曲法を学ばれました。
中学校で使う合唱曲集には松下耕さん作曲の歌がいくつも掲載されていて、中学生達はその歌に励まされてきました。
私も校内合唱コンクール3年生の課題曲に、谷川俊太郎作詞の「信じる」を取り上げたことがあり、生徒達はその歌詞と音楽に感動し、一生懸命に練習しました。
卒業式で卒業生全員で歌った時の感動は今でも覚えています。
松下耕さんの曲はNHK全国学校音楽コンクールの課題曲にも何度もなりました。
今年度の高等学校の部の課題曲「明日のノート」も 松下耕さんの曲です。
2007年には熊本の阿蘇にお招きして合唱講習会をしました。
県下の合唱団が参加して、松下先生から直接学ぶことができたのはとても貴重な経験でした。
ア・カペラのエチュードを用いて、優しく明るく指導してくださったのは、指導者にとっても深い学びになりました。
こちらは松下耕さんの公式ウェブサイトです。
それでは、松下耕さんの指揮で「信じる」をお聴きください。
10月17日はショパンの命日
10月17日はショパンの命日です。
フレデリック・ショパンは1810年3月1日、ワルシャワに生まれました。
ショパンについては、私が特に紹介できるようなことは何もありません。
毎日ショパンと向き合っている方がたくさんおられるでしょうから。
ショパンは7歳の時にポロネーズ第11番ト短調を作曲、出版したと言われています。
「ポロネーズ」というのはポーランドの村人たちの踊りの音楽です。
「英雄ポロネーズ」と言われる「ポロネーズ第6番」は32歳の時の作品です。
それから7年後の1849年10月17日、ショパンは39歳という短い生涯を閉じました。
今日は、 亀井聖矢さんが10歳の時の「英雄ポロネーズ」を聴いてみましょう。
10月18日はグノーの命日
10月18日はシャルル・グノーの命日です。
グノーは1893年10月18日、75歳でこの世を去りました。 今日は、グノー編曲の「アヴェ・マリア」をヨーヨー・マのチェロとキャサリン・ストットのピアノでお聴き下さい。
以下は6月17日、グノーの誕生日に書いた記事です。
シャルル・フランソワ・グノーは1818年6月17日 、フランスに生まれました。 グノーと言えば、「アヴェ・マリア」を一番に思い浮かべますよね。 バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第1巻第1曲の前奏曲にメロディーを乗せたものです。 高校生の時、それを知って「そんなことしていいの?」と思いました(笑) グノーは「フランス近代歌曲の父」とも呼ばれていますが、歌曲だけではなく「ファウスト」や「ロメオとジュリエット」などのオペラや宗教音楽などいろいろな分野での作品を残しています。 それから有名な画家ルノワールとのこんなエピソードが残されています。 グノーが指導していたサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊にルノワールが所属していました。 ルノワールはとても歌が上手かったようで、グノーはルノワールの両親に彼をオペラ座の合唱団に入れるよう勧めました。 でも父親はそれを断り、ルノワールを知人の磁器工場に就職させたので、グノーはその才能を惜しんだのだそうです。 へぇー、そんなことがあったのですね では今朝は、我が町、熊本大津が誇るソプラニスタ木村優一さんの「アヴェ・マリア」をお聴きください。 優一さんは小学生の頃、私達の合唱団にも所属してくれていました。
10月19日は山田一雄の誕生日
10月19日は「ヤマカズさん」こと山田一雄さんの誕生日です。
山田一雄さん(本名は山田和雄さん)1912年10月19日.東京都に生まれました。
山田一雄さんは東京音楽学校(丸剤の東京芸術大学)ピアノ科を首席で卒業した後、研究課程に進み、卒業後は同校で教え始めました。
ヤマカズさんはマーラーの「復活」や「千人の交響曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などを日本初演した指揮者として有名ですが、作曲家としても幅広いジャンルの作品を残しています。
ヤマカズさんの指揮は大変情熱的で、演奏中に客席に転落し、それでも指揮をしながら指揮台に戻った話は有名ですね。
また興奮のあまりに指揮台に落としためがねを踏みつけて、ぐじゃぐじゃにしてしまったこともあるそうです。
それでは、山田一雄指揮、マーラーの交響曲第1番「巨人」第四楽章をお聴きください。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm31548713
10月20日~31日 リストやビゼーなど
10月20日はフランク・チャーチルの誕生日
10月20日はフランク・チャーチルの誕生日です。
フランク・チャーチルは1901年10月20日、アメリカ合衆国メイン州に生まれました。
フランク・チャーチルは私達がよく知っているディズニーアニメ映画の曲を作った作曲家です。
彼は音楽をやるために、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の医学部を中退し、1930年にディズニー・スタジオに入社しました。
「白雪姫と七人の小人」の中の「口笛ふいて働こう」や「ハイ・ホー」、「いつか王子様が」、また「三匹の子ぶた」の中の「狼なんか怖くない」などは日本の子ども達にも親しまれ、保育園の発表会の劇にもよく使われますね。
「いつか王子様が」はジャズ・スタンダードとしても有名です。
それでは、ビル・エヴァンス・トリオによる「いつか王子様が」をお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=XijfrrUUqD0
10月21日は箕作秋吉の誕生日
10月21日は箕作秋吉(みつくり しゅうきち)の誕生日です。
箕作秋吉は 1895年10月21日、東京に生まれました。
曽祖父と祖父は蘭学者、父は西洋史学者という学者の家系に生まれた箕作秋吉は東京帝国大学工学部卒業後、ドイツに留学して物理化学を研究します。
しかし音楽にも興味があり、シューマンに和声法を学びました。
帰国後もさらに作曲を勉強して「日本的和声」の提唱や新興作曲家連盟(後の日本現代音楽協会)の結成など、日本の作曲界を牽引しました。
「芭蕉紀行集」は芭蕉の俳句による10曲の歌曲集で、日本的和声によって作られています。
この曲は1950年、戦後、日本人作品として初めてベルギーにおける国際現代音楽祭で演奏されました。
でも音楽だけではなく、学位論文を発表して理学博士にもなっているので驚きです。
それでは、「芭蕉紀行集」を聴いてみましょう。
10月22日はリストの誕生日
10月22日はリストの誕生日です。
「ピアノの魔術師」の異名を持つフランツ・リストは1811年10月22日、ハンガリー王国に生まれました。
リストは父親の手ほどきで幼ない時から音楽の才能を発揮し、10歳になる頃には地元で演奏会を開催しました。
1822年にウィーンに移住すると、ウィーン音楽院でチェルニーの弟子になりました。
15歳の時、父親が亡くなるとピアノ教師として家計を支えたそうです。
リストはパガニーニの演奏を聴いて衝撃を受け、「自分はピアノのパガニーニになろう」と超絶技巧の演奏を目指しました。
でも晩年は技巧よりも表現力を大事にしたそうです。
リストは指導者としても素晴らしく、自分の真似ではなく、それぞれの個性を重視し、また指導は無料で行ったのだそうです。
ある時は、「リストの弟子」と偽って演奏するピアニストを家に招いて演奏させ、「これで私が教えたことになる」と言ったという話も残っています。
晩年のリストの曲は超絶技巧とは全く違って優しく不思議な感じです。
それでは晩年に書かれたノクターン「夢の中に」をお聴きください。
10月23日はエル=バシャの誕生日
10月23日はピアニスト、エル=バシャの誕生日です。
アブデル・ラーマン・エル=バシャは1958年10月23日、レバノンのベイルートに生まれました。
今年、66歳になられます。
エル=バシャは10歳でオーケストラと初共演しました。
1974年にパリ高等音楽院に入学し、ピアノ、室内楽、和声法、対位法の4科を首席で卒業。
1978年、19歳の時にはエリザベート王妃国際音楽コンクールにて審査員全員一致で優勝し、聴衆賞も受賞!
数年後には世界各国のオーケストラと共演するようになりました。
彼は毎年来日して「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO」に出演されています。
また地方のコンサートにも喜んで行かれるようです。
また作曲家でもあります。
それでは、ラヴェルの組曲「鏡」とシューベルトの「34の感傷的なワルツ集」「優雅なワルツ集」から6曲を聴いてみましょう。
10月24日はピエール・サンカンの誕生日
10月24日はピエール・サンカンの誕生日です。
ピエール・サンカンは1916年10月24日、フランスに生まれました。
彼はフランスの音楽会に大きな影響を与えた作曲家でありピアニストであり教育者です。
パリ国立音楽院で学び、「イカロスの伝説」でローマ大賞を受賞しました。
ピエール・サンカンは長らくパリ国立音楽院の教授を務め、ジャン=フィリップ・コラールなど、多くの優れたピアニストを育てました。
昨日ポストしたエル=バシャもピエール・サンカンの弟子です。
それでは「ミュージックボックス(オルゴール)」を聴いてみましょう。
10月25日はビゼーの誕生日
10月25日はあの「カルメン」や「アルルの女」で知られるビゼーの誕生日です。
ジョルジュ・ビゼーは1838年10月25日、フランスに生まれました。
ビゼーのオペラ「カルメン」は、今や最も人気のあるオペラの一つですが、初演は失敗に終わり、彼が生きているうちは評価されないままでした。
9歳でパリ音楽院への入学を許され、19歳でローマ大賞を受賞するなど、豊かな才能を現し、ピアニストとしても期待されましたが、彼は舞台音楽の作曲を目指しました。
しかしオペラやオペレッタの作品はなかなか評価されませんでした。
34歳のとき、管弦楽組曲「アルルの女」が成功を収め、勇気づけられたビゼーは「カルメン」の作曲に情熱を燃やします。
しかし初演は失敗に終わり、失望したビゼーは病が重くなり、1875年6月3日、36歳にして人生に終止符を打ちました。
彼が亡くなった後に「カルメン」は大きな評価を受けることになるのです。
それでは、小澤征爾さん指揮で「カルメン」 第1組曲よりお聴きください。
10月26日はドメニコ・スカルラッティの誕生日
10月26日はドメニコ・スカルラッティの誕生日です。
555曲余りのチェンバロのために書かれたソナタが有名ですが、今日はローマのサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊の監督だった時に書いた10声の「Stabat mater」をお聴きください。
https://www.youtube.com/watch?v=P3HVbkA3e0o
10月27日はパガニーニの誕生日
10月27日はパガニーニの誕生日です。
ニコロ・パガニーニは1782年10月27日、イタリアのジェノヴァで生まれました。
卓越した演奏技術のゆえに「悪魔に魂を売ったヴァイオリニスト」と呼ばれたそうです。
今日は千住真理子さんの演奏で、「24のカプリース」からOp. 1 第24曲をお聴きください。
10月28日はドミトリー・ボルトニャンスキーの誕生日
10月28日はドミトリー・ボルトニャンスキーの誕生日です。
「ロシアのクラシック音楽の開祖」と言われるボルトニャンスキーは1751年10月28日、ウクライナに生まれました。
彼は聖職者の子として生まれ、7歳でロシア帝国のサンクトペテルブルクの宮廷礼拝堂聖歌隊に入り、以後ロシアの宮廷音楽家として生涯を送りました。
19歳の時にイタリアに行きオペラを学んだ後、オペラ作曲家として成功を重ねましたが、1779年にサンクトペテルブルクに戻り、28歳でロシア帝国出身者として初めて宮廷楽長になりました。
そして彼が作曲した「Kol slaven(栄光なるかな)」はロシア帝国の国歌に採用されました。
しかし、彼の為したことで歴史的に最も重要なのは、ロシア正教会のために作曲した45曲もの「合唱コンチェルト」です。
今回は「ヘルヴィムの歌」第7番をお聴きください。
10月29日は成田為三の命日
10月29日は成田為三(なりた ためぞう)の命日です。
成田為三は1893年12月15日、秋田に生まれました。
「浜辺の歌」を作曲した作曲家であり教育者です。
「浜辺の歌」は中学校の音楽の教科書にも掲載されているので、多くの人が一度は歌ったことがあるでしょう。
私は、大学の卒業旅行で海辺に行った時、誰ともなく歌い出した「浜辺の歌」を、みんなで楽しくハモったことが懐かしい思い出です。
成田為三は21歳で東京音楽学校の師範科に入学し、個人的には山田耕筰に作曲を学びました。
卒業後は小学校の音楽の先生をしながら作曲を続け、「赤い鳥」に多くの童謡を発表しました。
彼は「赤い鳥」に、詩だけではなく初めて曲をつけて「かなりや」を掲載しました。
これが日本の童謡の第1号となりました。
その後28歳からドイツに留学して作曲を学び、帰国後はいくつかの学校で教鞭をとりながらピアノ曲や管弦楽曲などを作りましたが、多くは空襲で焼けてしまったそうです。
それでは、「かなりや」を聴いてみましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=IrS4qpSi-68
10月30日はフランス・ブリュッヘンの誕生日
10月30日はフランス・ブリュッヘンの誕生日です。
リコーダー奏者であり指揮者でもあるフランス・ブリュッヘンは1934年10月30日、オランダのアムステルダムに生まれました。
彼はアムステルダム音楽院、アムステルダム大学で学び、21歳で王立ハーグ音楽院の教授になります。
ブリュッヘンはリコーダー奏者として活躍し「リコーダーのパガニーニ」と呼ばれました。
そんな彼はしだいに古楽器に傾倒していき、1981年、世界から優れた古楽奏者を集め、私財を投じて古楽オーケストラ結成し指揮者となりました。
すごいことですね!
初来日は1973年にリコーダー奏者として、その後、18世紀オーケストラを率いての来日が何度もありますが、今年の3月に18世紀オーケストラの日本公演が何と11年ぶりに実現しました!
ブリュッヘンは2014年に亡くなっていますが彼の意志を継いだ古楽器奏者達が活躍しているのですね。
それではベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」 をフランス・ブリュッヘン指揮、18世紀オーケストラの演奏で聴いてみましょう。
こちらは1993年の来日公演での演奏です。
10月31日は福井文彦の誕生日
10月31日は作曲家、福井文彦の誕生日です。
福井文彦は1909(明治42)年10月31日、宮城県に生まれました。
彼は東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)ピアノ科を卒業後、藤原義江の専属ピアニストとしてアメリカ、ヨーロッパ公演に同行しました。
作曲家としても活躍し、1942年の日本音楽コンクールで第1位を獲得しています。
また東北地方の校歌を数多く作りました。
1957年には合唱曲「空・道・河」が第12回芸術祭作曲部門文部大臣賞を受賞、翌年には「動物園」が受賞しました。
そして、1964年には、東京オリンピックの歌として「この日のために」が選出されました。
それでは、「この日のためにー東京オリンピックの歌ー」を聴いてみましょう。
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